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どこかのWeb記事で現代美術を長期連載漫画にたとえていたのが印象に残っている。最新回にねばねばとまとわりつく文脈に気づくと、そのコンテンツを初めてアクセスの人にとってはなんだか気だるく感じてしまうのも無理はない。だからこそブーレーズは「歴史を必要としなくなる時代がくる」と奇妙な預言を残していたわけで。

このあいだ近藤譲講演「対位法の三つの顔」を聞いてきて、いろいろと興味深かった。対位法の従来的なイメージである、複数の声部を組み合わせる技術(第1の顔)を批判的に検討し、対位法の起源を単一声部に厚みを持たせる技術(第2の顔)に見出したところで、第1の顔のような奇妙な対位法イメージを醸出するまでに発展した音楽が、「聴きようによっては和声的にも対位法的にも聴こえる」という第3の顔をもつようになった。という。近藤は自分の作品にも対位法への欲望が首をもたげることがある、と言い、それを第1の顔になぞらえて説明していた。

第1の顔、なところがミソ。「線の音楽」という号砲に限らず、近藤譲という作曲家は自己教育の作曲家で、その鍵は知覚によって音楽世界を再構成することにある。しばしば近藤は自分の音大受験へのエピソードをよく話すけれど、それは近藤の取り組む問題が、受験を志すその最初から今日まで一貫して変わっていないからだろう。近藤より先行する世代の音楽家たちが音楽や作曲に向けて投げてきた言い回し(耳がいいとか、和音を聞くと特定の楽器が聞こえてくるとか)を、文字通り受け取るとどう作曲できるか、それをラジカルすぎるほど極端に考えることが、近藤の最初期から継続しているプロジェクトなのではないか。

ようするに知覚を通して対位法を再発明しようとしているわけだけど、しかし第1の顔の再現になってしまうのが一つの限界か。ここでは知覚=聴取なわけだけど、対位法はその技術的原理からマクロな視点をもたないはずなので、対位法を対位法として知覚することは理論的に不可能なのではないか。対位法は局地的交渉の束であり、声部の数に応じて視点が、つまり聴取ポイントが設定されるはず。だからいつも束としてのひとまとまりを聴くにすぎない。だから全体を聴く、というとき、それは対位法としてではなく和声として聞いているわけだ。講義の最後に司会者に答えるかたちで「学習フーガは和声ですから」とさりげなく言ったのは、じつに意義深いこと。

知覚を通して再発明する。知覚されたものが記憶と結びついてひとつの像をむすぶ。それが「歴史を必要としなくなる時代」の一つの方法なのだろうか(ようやく最初の話になった)。そう思うと近藤が第2の顔を見出したにもかかわらずそれ以上近づけなかったことに、なにか考えるところがないでもない。